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解説:内国勧業博覧会とは、明治期、殖産興業政策の一環として開催された博覧会。それ以前に行われていた博覧会、たとえば明治5年の湯島聖堂での博覧会などは、珍奇な古物を見せることを主眼にしていた。しかし内国勧業博覧会は、その名の示すとおり産業の育成が目的であり、書画骨董から「美術」への脱皮がはかられた。 第1回内国勧業博覧会は、明治10年、上野寛永寺跡地で開かれた。東西本館、美術館、機械館・農業館・動物館・園芸館などの展示施設が建ち並んだ。中でも美術館は、会場の中心的な位置に置かれ、他の建物が仮設の木造なのに対し、煉瓦造で建てられたことからも、博覧会のシンボル的役割を果たしていたことがわかる。 本図は、美術館の内部と外観を組み合わせて描いている。内部の描写は、絢爛たる展示内容と観客の賑わいを主眼としているため、相当に歪んだ空間となっているが、壁面いっぱいに飾られた西洋風の「展覧会」を目にした驚きが伝わってくる。 同じ画題を扱ったNo.650と比較すると、正確さの点では大きく見劣りするが、入場者45万人を数えた会場の熱気は、本図の方がよく伝えているといえよう。なお、本図においても描き込まれた展示品は、基本的には実物を参照していると思われる。No.650と共通する絵として、エントランスに掛かる大きな鷹の図、右端に見える富士山の図などが挙げられる。(田島) (採寸情報)右と中央の版は絵がつながらないが、すきまなく合わせた寸法を表記した。右は360×235mm、中央・左は362×473mm。(青木睦)
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