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解説:1877(明治10)年に、本図の右寄り上部の猿島と、左端上部の夏島を結ぶ海域を海軍軍港に指定して要塞地帯となった横須賀の、というよりは横須賀軍港の一覧図である。ただし、後年になると本図のような俯瞰図を写真に撮ったりすれば、直に官憲に抑えられたことを思えば、本図のような明細図を刊行できた明治前期は、まだ余裕があったといえよう。 図の上部には横須賀の沿革が略記されているが、その中に近世は″戸数僅に三十余戸″とあるのはやや過小の表現で、天保期(1830~1844)の家数は201軒だったという。いずれにしても寒漁村であったことには変りはない。それが1864(元治元)年にフランス公使ロッシュの視察で、造船所の候補予定地とされた時から変化が始まる。造船用の製鉄所建設が1865(慶応元)年に始まり、1867(同3)年に第一ドックの開削となる。維新後も新政府がこの事業を引継ぎ、1871(明治4)年にその第一ドックが完成し、ついで第二、第三のドックを次つぎに着工して、1874(同7)年に第二が、1884(同17)年に第三ドックが完成した。本図は、まさにその翌年に完成記念のように出版されている。再び上段の説明文によれば、この基地は規模においてアジア第一を称し、見学人は1日に数百人に達したという。それを受入れるために、料理屋と妓楼が用意されて繁昌しているというのは、極めて日本的といえよう。その妓楼は、猿島の対岸にあたる東側の海岸線に沿って並んでいた。(原島)
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